(Photo Credit: Kola Yuki via Photo Pin)
筆者の専門は「体験教育」。その中でも、アメリカで生まれたプロジェクト・アドベンチャーという野外教育の派生で生まれた教育手法の理念を自身の教育観の基盤としています。そんな筆者が、2年前から幼児教育に携わるようになり、様々なご縁から、現在はカリフォルニア州の日本人幼稚園で保育に携わっています。
渡米して2ヶ月が経ちましたが、ここでの体験から自分自身が「子どもの育ち」について思うことを、みなさんと共有したいと思い文章を書かせていただきました。根拠のない雑多なひとり言かもしれませんが、ぜひみなさんの「考える」きっかけになればと願っています。
子どもが持つ本来の遊びの本能を活かすことの重要性
先日コロラドで開かれた体験教育学会(Association for Experiential Education)のプレゼンテーションで、”Play: How it Shapes the Brain, Opens the Imagination, and Invigorates the Soul.”(遊び:脳をどのように形作り、想像力を開き、心を元気にさせるか)という著書が度々引用されていました。
その著書の中に、「遊び」が生物学的に動物の生まれ持った本能であるという逸話があります。カナディアンエスキモーの橇を引く犬が、空腹な大きな白クマが現れたときに、唸る代わりにしっぽを振って遊びに誘った。すると白クマがそれに応じて取っ組み合いごっこをしたという出来事。翌日も、その翌日も、白クマは同じ犬のところに現れ、1週間に渡り毎晩じゃれ合って遊んだという話です。
人間も本来、目的がなく、自発的な行為であり、時間を忘れ、継続する欲求を持つ「遊び」の本能を持っています。その遊びの中で、人間も一人で遊ぶだけでなく、他者と関わるということを本能として持ち合わせており、子ども同士が、気がつけばじゃれ合っている姿は自然な姿だそうです。
また、幼児教育の現場にいて思うことは、「人生で大切なことは、すべて幼稚園の砂場で学んだ」ロバート・フルガム著、という著書があるように、子どもたちは「遊び」を通して、社会に出る準備をしています。極端な言い方かもしれませんが、子どもたちは日々の遊びを通して、「社会人基礎力」:前に踏み出す力、考え抜く力、チームで働く力(経済産業省)の土台を学んでいると筆者は信じています。
もちろん、教育としての大人の意図的な介入は、子どもへの刺激であり、遊びや体験の質を向上させるものです。しかし、子どもが持つ本来の遊びの本能を活かすことの重要性を、大人は忘れてはいけないと思います。
暴力表現の規制がとても厳しいアメリカの子ども向け番組
さて、ベイエリアには日本人が約1万人おり、日本のテレビ番組も、食べ物も何でも手に入ります。そんな環境で育った、とある日本人の両親を持つ4歳の男の子。3歳まで、ほとんどテレビを見ないで過ごしてきたとのこと。最近テレビを見ていて、ジャイアンがのび太に意地悪をするシーンや、アンパンマンがバイキンマンをやつけるシーンに「かわいそう」と言って涙を流したのだとか。
お母様にお話を伺ってみると、アメリカの子ども向け番組は、暴力表現の規制がとても厳しいので、平和的なものが多い反面、日本のアニメは暴力的なものも多いのではないか、とのことでした。
確かにアメリカの子ども向け番組Cartoon Networkの中に、ドラゴンボールのように、血を流して戦う番組はありません。全体的によく規制されているという印象です。しかし、機関車トーマスは周りから意地悪をされるし、トムとジェリーではかなり残酷な方法でネズミがネコをやつけるし、暴力的な一面もあると思います。
アメリカの映画の年齢規制システムを見てみると、G (General Audience)=全年齢に適している、PG (Parental Guidance suggested)=子どもに視聴させる前に保護者の検討を提案する、PG-13 (Parents Strongly Cautioned)=13歳未満の子どもの視聴は、保護者の厳重な注意を必要とする、R (Restricted)=17歳以下の鑑賞は保護者の同伴が必要、と分類されます。
ゲーム業界でも「エンターテイメント・ソフトウェア・格付け局」なるものが、30項目を対象に、6段階の年齢制限の格付けをしています。
メディアの規制という話になると、大きな問題になるのでここでは取り上げませんが、気になる点が2つあります。1つ目は、暴力的な番組を観る=他者に暴力をふるう、というのは短絡的すぎると思うけれど、映像を見ることも体験と考えるならば、子どもたちが暴力的な意識を体験学習しているのも事実だということ。2つ目は、いくら格付けがされていても、情報を手に入れることが簡単な社会では、親の意識と管理力が求められるのではないかということ。
「戦いごっこ」は禁じられるべきか?
(photo by Defendiendo Fort Riley via Photo Pin)
一方、日本の幼稚園では、子どもたちが戦いごっこをしている姿をよく見かけます。
◯◯レンジャーになりきって、必殺技の名前を叫ぶ子どもたち。筆者は、戦いごっこは男子の遊びだと認識していましたが、最近では女子がプリキュアごっこで、悪者をやつける遊びをしているのをたびたび見かけます。社会の男女意識の変化から、アニメに現れる女性のヒーロー(ヒロイン)像も変化しているのでしょうか。
またヒーローの武器も進化し、より強くて格好良いものが求められています。その風潮を受け、子どもが与えられる玩具やメディアから受ける情報も変化しているのを感じています。
そんな戦いごっこについても、文化の違いから起こる興味深い一面があります。銃犯罪の多いアメリカだからこそ、たとえレゴブロックや玩具であっても、武器と見なされるものを作って遊ぶと先生に叱られるという幼稚園が多くあるそうです。コロラド州のとある小学校の安全のルールには、
①身体的な虐待や暴力禁止(「本物」でも「遊び」でも)
②武器(「本物」でも「遊び」でも)、違法薬物(タバコ含む)、アルコール禁止
③人や施設に対する非尊重行為の禁止(人種差別、故意に教員の指示に歯向かう行為、悪質な落書き等)
と明記されており、今年の2月には小学2年生の男子が、空想の手榴弾を投げたということから、停学になったという事件が起こりました。これにはさすがに賛否あったようです。日本の教育では、メディアの影響を受けた「戦いごっこ」を教育の現場でどのように位置づけていくべきなのでしょうか?
不必要な刺激から子どもたちを守ることも教育の一貫
最後に、シリコンバレーにあるシュタイナー学校の幼稚園を見学に行ったときの話。
部屋の中には淡い色合いの布がかかっており、パンが焼ける香りがする中、子どもたちは羊毛や木製など自然素材の玩具で穏やかに遊んでいました。この中にいると、日本の一般的な幼稚園での当たり前なこと、例えば、電池で動く玩具、キャラクターグッズ、「みんな同じ顔の壁面を飾るクマさんとウサギさん」など、なぜなのか?と自問することが多々ありました。
先生との対話から学んだことですが、シュタイナー教育では0~7歳は、家庭の延長というくらい「ホーム感」を大切にするそうです。この時期は模倣・模範が鍵となる時期のため、まず教師や大人が率先してお手本を示すことが大切。そのため、家庭とも連携をしてメディアや外からの不必要な刺激から子どもたちを守ることも教育の一貫だということです。
印象的だったのは、Sheltering(かくまう、保護する、擁護する)という言葉を使っていたことです。乳幼児期には、家庭の中での守られた環境や、規則正しい生活から、子どもの心に安心感や平穏を育てる。そして、後にやってくるメディアや、外的刺激を受けたときに、それに対して違和感を感じることができ、平穏に戻ろうとする心を準備するのだと思います。
子どもが本来持つ純粋で、互いに関わりを持とうとする遊びの感覚。また、そこからの学びや人格形成。果たしてその純粋さや学びに対して、メディアが与えている情報はどう影響しているのでしょうか。
子どもたちは日々体験をしています。その一つ一つの体験から、子どもたちは何を学んでいますか?当たり前だと思っていることに対して、まずは大人が疑問を持ち、よく考えることが始まりだと思います。
学校法人藤樫学園矢切幼稚園理事。玉川大学文学部外国語学科英語専攻卒業。米国ニューハンプシャー州 Plymouth State University K-12 Education、Adventure Education 修士課程修了。大学卒業後は米国に留学し、アドベンチャー教育を専門に学ぶ。帰国後、玉川大学学術研究所「心の教育実践センター」で、 大学助手として、体験学習プログラムの実践・開発・研究に携わる。学校教育プログラム、社会教育プログラム、企業研修、教員研修など様々な領域をフィールドとし活動。現在は、矢切幼稚園で主事を務める傍ら、アドベンチャー教育のファシリテーターとして、チームビルディングやリーダーシップ研修などの活動を行っている。