「どうせ僕は将来ニート」
先生「うちの学区には、コウソウがあるんです。」
私「コウソウ?それはなんですか?」
2005年に私がキャリア教育コーディネーターとしてある地方都市の小学校へ行った時のことでした。総合学習の担当の先生に、その学校の課題についてのヒアリングさせて頂いていました。先生はため息混じりに話を切り出しました。
ちなみに、”キャリア教育コーディネーター”とは、小学校から大学まで、総合的な学習の時間(総合学習)などの授業に、学校外部の様々な職業や生き方をしている市民や企業などを活用した授業や、インターンシップなどのキャリア教育等の授業づくりを支援する専門家です。先生と打ち合わせを重ねて、プログラムの企画を一緒につくるのが仕事です。
先生「コウソウって五階建ての高層アパート・県営住宅のことですよ。家賃が安いから、低所得者層の家庭が多く住んでいて、まわりに昼間から仕事をせずにプラプラしている大人もたくさんいる。だから、『どうせ僕は将来ニート』という児童がけっこういるんですよ。」
私「えーっ。小学生なのにですか。まだまだいくらでもチャンスがあるのに。」
先生「周りの環境に影響されるんです。それほど不幸せに見えないし、勉強は面白くなければ、どうしても安易に流れてしまう。教員もそんな生徒にも、『それじゃダメだ』と伝えているのですが、これが難しい・・・。」
私は、この学校では、母子家庭に生まれでその母親がアルコール中毒になり、最悪の経済状態から這い上がった市民の体験談の授業を行ったのですが、あまり効果がありませんでした。講師のいい話を聞いて、その時は希望が持てたとしても、圧倒的に大きい貧困の環境要因に対してはこれでは不十分でした。
「彼らにこそ、もっと充実した教育環境が必要だ!」と痛感しました。思い出してみると、私が小学生の時にも、こうした市営・県営のアパートは周りにたくさんありました。社会全体がイケイケどんどんの前向きな空気もあり、少なくとも小学生では、友人たちはそれぞれに夢をもっていて、元気だった気がします。
それが、バブル崩壊後、社会が低迷し、閉塞した大人に囲まれる中で、本来であれば、将来の夢や希望に溢れているはずの小学生でさえ、夢も希望ももてない状況がなっています。
圧倒的な格差の前で、消えていくハングリー精神
正に「希望格差」とも呼ぶべきこの状況は、その後、現場の教員と話をしていると、ますます強まっていると感じます。
小学校・中学校は、義務教育ですから、どんな経済状況でも就学援助があり学校に行けます。しかし、高校になれば、親がリストラや倒産などで経済状況が困窮すると、高校を辞めざるをえなくなったり、その後の進学を諦めなければならない状況になります。
高校の教員との話の中から、「親がリストラされ、学費が払えない」とか、「保険証をもっていない生徒がいる」など、学びの質の前に生活そのものが困窮している話になることも少なくありません。
私が運営に携わっている愛知私学奨学資金財団には、2月のこの時期は、「卒業時に授業料が払えないと卒業できないから」と駆け込み申請が急増します。今月はすでに6名の申請を受け付けました。
「ハングリー精神」なんて言葉がありますが、それには「自分もがんばれば、この状況を脱することができる」という自己効力感があればこその話です。
そもそも圧倒的な格差のなかに長期間置かれた子どもは、意欲を喪失し、「金持ちと結婚したい」とか、「生活保護うけて、働かずに生活したい」など他力本願になるか、冒頭の小学生のように「どうせニートに」等、自暴自棄になってしまうのです。
経済的な格差が広がっている今こそ、教育の充実により、どんな状況におかれた子どもにも、「努力すれば、今の状況から脱することができる」、「目標を持って行動することが楽しい」など、自分の人生に主体的、前向きになれる出会いや達成経験などが生まれる、「格差を超えるための教育環境」をつくることが急務です。
一人の若者も無駄にする余裕は、私たちの国にない。
「教育は投資である」と言われます。
では、教育投資に対してどの程度のリターンがあるかを、税収からの観点で捉えてみます。もし、ある人が、フリーター・ニートになってしまったとき、 正社員程度の収入を得られる仕事につけたとします。その場合の税金(所得税・住民税・所得税)はどの程度の差があるのでしょうか。
年収360万円程度の正社員の納税額は33万円。年収106万円のフリーターの納税額は7万円。つまり、その差26万円です。
これがもし40年間続いたとしたら、約1,000万円の差になるのです。つまり、一人の若者が働けない状況にしてしまうのは、最低見積もっても4,600万円の税収の損を引き起こすのです。これに加えて、これに生活保護費が30年間、月10万円必要とすれば、月10万円×12ヶ月×30 年=3,600万円が支出されることになります。あわせて4,600万円。
深刻な少子化を迎えている日本に、一人の若者を無駄にしている余裕はありません。裏を返せば、その一人の若者をきちんと社会の担い手になるまで教育することに、1,000万円かけても、長期的にはペイするということなのです。これが社会的な意味での教育投資のリターンなのです。
希望と安心のリターンを生み出すソーシャル教育投資
この教育投資の資金の出し手の違いで、「公的教育投資」と「私的教育投資」があります。
公的な教育投資は、政府・自治体が税金から教育費に出すものです。実際に使われる金額は大きく、公正中立な運用がされる反面、教育効果に対してのコミットメントが低かったり、教育の受益者が、教育投資を受けているという感覚が生まれない点が課題です。
それに対して、私的な教育投資は、自分の子どもに自分のお金で投資をするわけですから、その分、成果に対してのコミットメントが高く、選べるメニューも、スポーツやお習い事から、塾等まで様々なものが選べます。
しかし一度、親の所得が少なくなると受けられなくなり、格差に対して無力です。また、「投資をしたのだから、サービスを受けるのが当然だ」というような姿勢や、「教育の成果は自分のものだ」というように自己中心的な姿勢にもつながります。
そこで、第三の教育投資の出し手として、地域の人々や会社が、その地域の子女のために自発的にお金を集め、地域の発展のために教育投資を行うという、いわば「ソーシャル教育投資」というものがある、と私は提言しています。
事例としても、「あしなが育英会」のような歴史ある団体から、「公益社団法人チャンスフォーチルドレン」や、私たち「アスバシ教育基金」など、今、新たな拡がりをみせています。
公的教育投資と私的教育投資のスキマを埋め、親の所得にかかわらず、教育プログラムを受けられたり、公的教育投資では手が届なかった内容の教育を進めたりできます。加えて、最大の効果は、教育の受益者に、「この教育が受けられるのは資金を提供者のおかげ」という感謝の気持ちを生み出せることです。これが周りの人々、社会の役に立ちたいと思う公の心を生み出すためのエッセンスになります。
冒頭に紹介したような、意欲のない子ども・若者はますます増えています。彼らを、「自己責任」と切り捨てるのではなく、一人残らず社会の担い手へと成長していく教育環境を、公的教育投資、私的教育投資に依存しない方法で整えることは、地域社会を豊かにし、我々に希望と安心のリターンを生み出すことなのです。