「子どもの貧困」という言葉が社会に広がってから10年が経ちました。2019年の夏には、「子どもの貧困対策法」の大綱見直しが控えています。2016年は、「子どもの貧困」という言葉が一番検索された年でもあり、「子ども食堂」が急増した年でもあります。今年も多くの子どもと支援者に出会いました。
多くの人に「子どもの貧困」という言葉が広がってから10年が経った今だからこそ、社会の反応や支援者が語るその言葉に違和感を感じることがあります。2019年を迎えるにあたって、もっと議論を深めて欲しいテーマが3つあります。
(月に1度はボランティアと職員でふりかえりをします。この時は、どんな場所が必要かを話しあいました。)
悩み1:どうすれば本当に届けたい子どもに届きますか?
これから新たに支援をはじめようとされている方、もしくは、この数年で支援をはじめられた方に一番多い声です。具体的には、「裕福な家庭ばかり来てしまう」「全然子どもが集まらない」「もっと大変な家庭に届けたい」といった悩みが語られます。では、そもそも「本当に届けたい子ども」とは誰のことを指すのでしょうか?
私は、ここでもう一つ問いを立てたいと思います。なぜ、「本当に届けたいと思っている子ども」に支援を届けたいのでしょうか?私は、支援したい子ども像が“深刻”過ぎているのではないかと感じています。「本当に届けたい子どもは誰ですか?」と尋ねると、「困っている子ども」「食べれてない子ども」「勉強したいけど勉強できない子ども」と返ってくることが多いです。
しかし、現実として、本当にしんどさが限界に達している時ほど、逆に子どもの困りごとはわかりづらいSOSであったり、一見しただけでは読み取れない場合が多いです。
救急車を呼ぶのと同じで、よっぽどのことがない限りは「助けて!」とは言えない状態、言い換えれば、よっぽどの状況になってしまった時にしか援助を求められない環境、支援者が現れてない社会になってしまっているのが現状です。
教育関係者的な視点から見ると、子どもの普段のちょっととしたしんどい気持ちは、大人側からは問題行動として捉えられてしまうかもしれません。また、子どものしんどさに対して、大人側は指導する対応に偏り、ケアする対応を取らない方も多いように感じます。
逆に、本当に困った子どもに出会えたとしても「うちでは手に負えない!」となってしまう、もしくは「自分たちでなんとかしなきゃ!」と必死になる支援者も少なくありません。どちらにしてもせっかく支援につながったと見えても、支援から離れてしまうリスクは大きいのです。「助けてくれない」その積み重ねが「本当に届けたい子ども」を孤立させている可能性があります。
(活動で子どもたちとつくったお菓子。上手にできるかよりも、どう楽しんで作るかが大切です。なので見た目も楽しい感じでカラフルになってます。)
悩み2:どうすれば連携できますか?
「地域のつながりは、どうすれば作れますか」という声もよく聞きます。「連携や地域のつながり」「地域連携」といった言葉は、確かに子どもの貧困対策として有効そうな響きを持っていますが、果たして本当に「地域連携」が必要なのでしょうか?
全国から支援者が集まった時、よく都会と地方の違いの話がされます。都会では、地域のつながりの大切さが言われますが、地方ではむしろ「しがらみ」になってしまうことが多いと言われます。
言葉では簡単に言えるのですが、「来てほしいボランティアが来ない」「ちょっと関わるのがめんどくさい人が来てしまう」「こっちの言うことを聞いてすらくれない」と言われるように、地域の事情ややりたいことの対立によって、求めている支援体制が作れないことがあります。
よくニュースでは、モデル地域として「地域一丸となって子どもの貧困対策に取り組んでいる」地域が描かれますが、それに対して実際には「子どものことばっかり言っていられない」というのが本音の方も少なくないと思います。
地域の中には、いろんな価値観を持った人がいるからこそ、また様々なコミュニティが存在しているからこそ、地域課題の優先順位は異なり、対立や摩擦が起こります。一方的に「子どもの貧困これだけ大変なことになっているから協力してほしい!」と正論だけを伝えても対立や摩擦を加速させてしまいます。
「子どもの貧困」の支援には、様々な切り口があります。支援者にならなくても、子どもの成長や育ちを支えたり応援したり見守ることができます。寄付者にならなくても、子どもとすれ違った時に挨拶をしてくれるだけで良き理解者となれます。
「子どもの貧困」という一つのテーマだけで関わるのではなく、「地域の様々なテーマにこちらから近づくためにはどうすれば良いか」といった議論がこれからは必要だと感じています。啓発活動よりも対話を、どう「わからせる」かよりもどう「わかりあえるか」の議論です。
(毎年恒例の缶つみ。地域のイベントでは普段出会えない子どもたちとも出会えます。)
悩み3:資金調達はどうしていますか?
支援者の悩みとして最も大きいのは「お金」のことではないでしょうか?
これまでは「子どもの貧困」の現状を知ってもらうことによって「なんとかしたい」という気持ちからお金が集まってきました。しかし、10年が経過した現在は、お金を出す側としては「どこにお金を出せば子どもに届くのか」「一体どれだけお金を出さないといけないんだ」と疑問や不安を感じる場面も増えてきたと思います。
一方の支援者側も、支援者総数が増えたことによって逆に寄付や助成金・補助金等の取り合いが起きてしまい、「また、目新しいことをしなければいけない」「事業規模を発展させなければいけない」と競争に巻き込まれています。その結果として、社会が要請する支援の“期待値”が高くなりすぎてしまったのではないかと考えています。
本来、支援は支援者から被支援者に対して、一方的に行うものだけではありません。しかし支援を“する”ことが強調され過ぎて目的化してしまい、「助ける」「なくす」「救う」といった“支援中心”の子どもの貧困対策しか議論が進んでいません。支援した先にある「その子どもたちがどういう社会で暮らしたいか」を意識することが薄れてしまっているのではないでしょうか。
子どもの貧困の支援には正解や出口がありません。子ども時代を支えても、大人になった時につまずきこじらせてしまうリスクが潜んでいます。全体の資源を増やす議論も大切です。
それ以上に長い目で見た時に、必要な支援の種類やその改善方法だけではなく、「支援がなくても子どもやその周りが安心して暮らせる社会とは何か?」といった支援のその先を議論することの方が必要だと感じています。その結果として、お金がなくてもできる支援、必要な支援、無理しなくてもしたい支援、できる支援が見定めることができると思います。
(近場で紅葉狩りへ!”一緒”に地域で育つことを大切にしています。)
高すぎる理想や要望に惑わされない
今回の記事でまとめた支援者の悩みは、子どもが使う言葉に置き換えると「人間関係の悩み」と「理想と現実の悩み」に言い換えることができます。
子どもで「どうしたら友達と仲良くできるか」「どうすればいじめられないように学校で生きていけるか」と悩むように、支援する大人も「どうすれば地域の人と仲良くなれるか」「どうすれば寄付を頂いている人の期待を裏切らないか」と悩んでいます。
当事者にとってその悩みは、「苦しさ」という気持ちを伴います。
いろんな場所で「連携していきましょう!」と何年も同じことが言われていますが、子どもの目線で言えば「いじめてくるクラスメイトとも仲良くしましょう!」と言われているのと同じように感じます。言っていることは正しいかもしれませんが苦しいのです。孤立に対してつながることは大切ですが、「みんなと仲良くつながる必要はない」と子どもと関わっていて思います。
まずは、頼れるひとりの人を。
そして、1週間に一度顔を合わせれば良いだけの関係や、1年に1回だけ名前も知らないけど「大きくなったね」と言ってくれる人のように、多様なつながりの距離や頻度があっていいと思います。高すぎる理想や要望に惑わされず、背伸びし続けなくて良いように、子どもも大人も安心して暮らせる地域づくりができればと思っています。
スーパーマンのように何でも解決してくれるけど困った時にしか現れない支援者がたくさんいる町よりも、一緒に遊んでくれたり、ご飯に誘ってくれたり、時には人生相談や恋愛相談をしてくれる、そんな自分を理解してくれる仲間や存在が周りに少しでもいてくれる町に私は住みたいです。
Author:三宅正太
特定非営利活動法人「山科醍醐こどものひろば」職員。1995年兵庫県出身。大学生時代に「はちおうじ子ども食堂」を立ち上げる。同時期に公益財団法人「あすのば」の設立に関わり、卒業までこどもサポーターとして都道府県ごとのイベントや子ども若者の合宿などの企画を担当。卒業後は滋賀にある特定非営利活動法人「こどもソーシャルワークセンター」で半年スタッフを経験し、現在に至る。
子どもの貧困対策事業をご支援ください!:NPO法人山科醍醐こどものひろば
「ひとりぼっちの夜の家で育つ子どもの気持ちを知っていますか?」 あなたの力で寂しい夜を過ごす子どもにほっとする一夜を。
子どもたちは生まれてくる親や社会(地域や時代)を選ぶことはできません。今の時代は親の自己努力や従来の地域のつながりだけで、子育てが何とかならない時代に突入しています。だからこそ、そのような子どもに責任のない「子どもの貧困」を軽減するために、市民の力を必要としています。NPO法人山科醍醐こどものひろばの子どもの貧困対策事業をご支援ください。