ニュース編集やNPO勤務、起業などを経験したのちに、作家としてノンフィクション・ノベル「家出ファミリー」を上梓した田村真菜さん。
前編では、機能不全家庭で育った田村さんに、虐待について考えていることをお聞きしました。後編では、そういう子どもや家族に出会ったときに支援者や教師としてどうすればいいのか、を考えていきます。
1988年東京生まれ。12歳まで義務教育を受けずに育つ。国際基督教大学(ICU)卒。ポータルサイトのニュース編集者やNPO勤務を経て、2015年に独立。子どもの貧困の連鎖解消、若者の就労支援、10代妊娠、母子世帯の生活支援など様々なテーマのNPOに関わり、パートナーとして情報発信・新規事業立ち上げに従事。虐待や貧困の経験者でもあり、著書に私小説「家出ファミリー」(晶文社・2017年)がある。1児の母。
-田村さん自身は、子どものときに何らかの支援を受けられていたのですか?
田村:全くありませんでした。先にもお話したことですが、私自身12歳まで学校にほとんど行かなくって問題児だったのです。毎年「今年は誰が田村の担任をするか」が職員会議で決まるくらい(笑)。
でも、親が働いていなかったり、家が貧乏なんだろうなということは知っていても、暴力を受けたり虐待されているということは、先生たちは誰も気づいてなかった気がします。
子どもの頃から新聞を読むのが好きで、ある時「殴られている子どもは、児童相談所とか養護施設っていうのに逃げられるらしい」ということを知ったんです。
それで、「妹と一緒にそういうところに逃げた方がいいのかな」って考えたりもして。それで、図書館で養護施設についての本を調べてみたら、養護施設の中での職員の暴力の話とかが出てきちゃって。「あれ? 家を出てそこに行ってもまた暴力があるじゃん」と思って、施設への問い合わせを止めたんです。
-「自分は『暴力』を受けていて、そういう施設に行った方が良いのではないか?」と考えられる子どもっていうのが、まずレアケースですよね……。読んでいた本の中に「ここに行けば解決できる」という情報があったら、そこに行っていたのでしょうか?
田村:どうだろうなぁ?「行ってみたい」と思っても行けてなかったかも。連絡手段とかもないじゃないですか? 子どもって。当時はケータイとかもなかったし、家から電話したら親にばれちゃう。「児相に連絡した」なんて親にばれたら、まず間違いなく殴られるわけで……。
あとやっぱり、「心理的な壁」ってあるなと思うんですよね。親のことだって、暴力ふるってくるのだとしても、100パーセント嫌いになりきれない子どもって多い気がします。
私も、先生や叔父がキレて私を殴ろうとしてきた時には「警察に突き出してやる!」って怒鳴ったりしたし、本当に電話してやろうと思ったんだけど、やっぱり親にはそこまでできなかったです。
罪悪感だけじゃなくて、親がムショに入るとか困るなぁみたいな打算もありましたが。
親を責めたいわけじゃないけど、避難したかった。でも、そういう気持ちに答えてくれるような何かは、当時ありませんでした。公的な仕組みの中では、私が避難することは、親の養育の仕方や存在を否定してしまうような感じがしちゃって。
-虐待する側を否定しない支援があれば、ということですね。他に、「支援」に対して感じていたことはありますか?
田村:困っている人全員が持つ感情ではないかもしれませんが、「被支援者」として扱われるのが癪(しゃく)に障る自分もいるわけです。
れこそ高校生の頃、「皆さんの話を聞いてケア・支援しますね!」という人たちと会ったんですけど、「こいつらの『支援したい』という気持ちを叶えるためのダシにされてるなあ」と感じたりして(笑)。そこは、超問題児時代からあまり変わってないのかもしれません(笑)。
もちろん、緊急支援や保護だったり、明らかな支援をしなきゃいけない時はあると思うんですけど、ずっと「支援しなきゃいけない対象」として扱われたいわけじゃないなと思うんです。
NPOに勤めていたこともあるので、「○○人、支援しました!」という風にわかりやすい支援や成果が必要だという事情も理解できます。そうでないと、なかなか共感や活動費が集まらない部分もある。
でも、困っている人たちの尊厳のことを考えると……。「支援者には見えない支援者」みたいな立ち位置の人が増えるのが良いことなのではないかとも思いますね。
-イメージとしては、近所のお節介なおばさんみたいな?
田村:そうそう。支援団体が増えるのは悪いことではありませんが、それ以上に一般の人たちや組織が福祉的なマインドを持つことの方が大事だと思うんですよ。この本でも書いていますが、「ありえたかもしれない自分」という気持ちを、みんなが持つというか……。
-「ありえたかもしれない自分」というのは独特な言葉だと思いますが、「ノブレス・オブリージュ」(富める者や強き者は弱者を救う責任がある)とは違うんですか?
田村:行動としては近いかもしれないんですけど…、「ノブレス・オブリージュ」の方が「貴族」「自分たちが強者である」と言う立場が壊れないことを前提にしている気がします。責任として弱者や被支援者に関わる。それはそれで大事なことではあります。
でも、「ありえたかもしれない自分」は、想像をもってひとりの人間として相手に関わるということだと思います。
-支援側や教員にも、そういう気持ちを持てる人が増えるといいと思いますね。
田村:そうですね。先日、あるNPOの代表が「私たちは絶対に性犯罪などしません」というようなことをブログで書いていたんですけど、少し違和感を覚えました。
「~はありえない」と言い切ってしまうのは、排除的だなと感じてしまいます。「子どもを殴る親なんてありえない」というのも、言うのは簡単ですが「じゃあ、あなたがリストラされた時やすごく追い詰められた時でも、同じことが言える?」というと、実際にそうなってみないと分からないじゃないですか。
誰でも多かれ少なかれ、犯罪を犯したり、暴力をふるったりする側になる可能性を内包して生きていると思うんですよ。
人はそこまでしっかりしてないというか、環境で振る舞いや善悪が変わってしまう。今とは違う自分になる可能性というのは常にあるんです。これから障害を持ったりする可能性だって誰にでもある。
大人がそのことを理解していないと、子どもが、マイノリティに対して「おまえはありえない」って排除するようになっちゃうと思いますね。困難がある中でもよりよくなりたいと足掻いている人を応援できる、人を断罪しない社会になったらいいなと思っています。
(インタビュー終了/ライター・生駒翼)
田村真菜さんの自伝的ノンフィクション・ノベル「家出ファミリー」
私たちの生活は柔らかな戦場だった―。
貧困と虐待が影を落とす過酷な家庭環境に育った10歳の少女は、突如母と妹と三人で野宿しながら日本一周の旅に出ることに。襲い掛かる様々な困難に立ち向かうサバイバルの日々を経て、成長した彼女が見出した道とは?