こども食堂

「こども食堂」の定義論争こそ当事者不在の「おとなの都合」-子どもにとって定義よりも重要なこととは?

被災地・石巻市内にもこども食堂の様子。現在、確認できているもので4ヶ所に広がっている。(被災地・石巻市内にもこども食堂の様子。現在、確認できているもので4ヶ所に広がっている。)

2012年に東京都大田区の気まぐれ八百屋・だんだんで産声をあげた「こども食堂」は、この1年間で全国各地に広まり、メディアによればその数は約300カ所と言われています。報道から時間が経っていることを考えれば、「こども食堂」の数はもっと拡大しているかもしれません。正に「こども食堂ブーム」といっても過言ではありません。

急速に広まっていくこども食堂

急速な「こども食堂」の広がりに対して、警鐘を鳴らすような記事も取り上げられるようになっています。

など、歴史も浅い実践であることもあり、全国各地での実践から、課題も少しずつ浮き彫りになってきました。これらの課題に対する議論やなぜこれだけ急速に広まっているのかは、前掲の記事に譲るとした上で、私自身が感じている「こども食堂」のあり方について、論じてみたいと思います。

「こども食堂」の定義を必要としているのは”おとな”である

実際に利用するこどもの立場からすれば、「こども食堂の定義はこうだ!」という議論は、実はさほど重要ではないと思います。

「こども食堂の定義は◯◯××だから、Aさんのやっているこども食堂は、こども食堂ではない」

「いや、Aさんがやっているこども食堂は、こども食堂だ!」

などという議論を段々と耳にするようになった気がします。

先の議論の中には、「こどもが参加していない」という批判含まれていますが、もちろん、そのようなこども食堂は論外です。それ以降の議論についてはこどもが置き去りにされている感が否めません。先に挙げたような「こども食堂」の定義論争というのは、「運営面での支援の受けやすさ」とセットになっていることが多いと感じています。

こども食堂の広がりに追随するように、様々な助成金や補助金などの支援が得られやすくなったと思います。しかし、ブラックな考え方をすれば「『こども食堂』というのぼりを掲げれば、支援が得られやすい」とも言えます。これは、前掲の記事で湯浅誠氏が指摘している通り、活動を支援する側のリテラシーも求められているということです。

ていざんこども食堂は、地元住民のお金や食材の寄付とボランティアで、運営が賄われている。(ていざんこども食堂は、地元住民のお金や食材の寄付とボランティアで、運営が賄われている。)

先ほどの「Aさんのやっているこども食堂は、こども食堂ではない!」のような論争が巻き起こっていることの原因の1つは、「こども食堂」というネーミングがもつ訴求力によって、運営面での支援を得られた大人と、一方でその訴求力によって「歪み」を受けたと感じている大人との摩擦です。

このような「こども食堂」の定義論争には、こども自身は登場しません。大人が運営するにあたって、不都合が生じるから論争になっているだけであって、そこに主人公であるこどもは登場しないのです。

利用するこどもの立場からすれば、大切なことは「こども食堂とは何か?」ではなく、「こどもにとって、どんな場(機能)になっているのか?」ということです。つまり、定義よりも中身を議論して欲しいはずです。

私は、「こども食堂」の定義論争を否定したいわけではなく、あくまでこどもの立場からみたときに、「もっと論じないといけないことがあるのでは?」と問題提起をしたいだけです。

仮に「こども食堂」の定義が定まったとして、Aさんが運営する場がこの定義から外れてしまったとしても、大切なことは「この場をこども自身が必要としているのか?」ということだと強く思います。

前掲の記事で三宅正太氏が指摘しているとおり、おとなの都合でこどもの場を奪ってはいけないのです。

プレーパークも学習支援も、そして「こども食堂」も居場所

「こども食堂」には「食」というコンテンツがあります。それはプレーパークが「遊び」というコンテンツをもっており、学習支援が「学習」というコンテンツをもっていることと同じです。こどもたちの育ちに不可欠な「遊び」を支援するプレーパークがあり、「学習」を支援する学習支援があり、「食」を支援するこども食堂があります。

いずれの機能にも共通しているのは、当たり前ですが「こどもがいること」です。

こどもたちはこれらの機能を使い分けたり、あるいは選択をして参加しています。「遊びたい!」から、プレーパークに参加するというこどももいれば、「学びたい!」から学習支援に参加するというこどももいれば、「食べたい!」からこども食堂に参加するというこどもがいます。

これらのコンテンツが理由になっているこどもたちもいますが、多くの団体が現場で感じていることは、それ以上に「場」自体を求めているというこどもたちが大多数だということです。

大人がいて、お兄ちゃん、お姉ちゃんがいて、先輩も後輩もいて・・・そんな「場」。

「会いたい大人、スタッフがいる」「一緒にいたい友達がいる」「参加することが当たり前になっている」などなどである。これはプレーパークや学習支援、こども食堂をスポーツ少年団や子ども会、野外活動に置き換えても同じことが言えるのではないでしょうか?

全国に広がる「生活困窮世帯のこどもの学習支援業務」。この「場」もこども食堂と同じように「場」としての力をもっている。(全国に広がる「生活困窮世帯のこどもの学習支援業務」。この「場」もこども食堂と同じように「場」としての力をもっている。)

こども食堂の役割も「食」というコンテンツの提供はもちろん、この「場」としての位置づけを果たしているように思います。もう少し言えば、この位置づけに自覚的できているかが大切だと思います。「こども食堂」の定義がどうであれ、こどもたちが「場」として必要だと感じていれば、それが価値となるはずです。

そしてこの「場」の存在自体が、どれだけ尊いものなのかは、多くの実践者たちが様々な切り口でこれまで語ってきています。こども目線での、この本質的な価値を、定義論争の中で見失わないで欲しいと思います。

Author:門馬優
1989年生まれ、宮城県石巻市出身。石巻圏域子ども・若者総合相談センターセンター長。早稲田大学大学院教職研究科修士課程修了。東日本大震災で故郷が被災、2011年5月にTEDICを設立(2014年にNPO法人格取得)。貧困、虐待、ネグレクト、不登校、ひきこもりなど様々な困難におかれる子ども・若者に伴走しながら、官・民の垣根を超えて、地域で育んでいく支援・仕組みづくりに取り組み、主に困難ケースへのアウトリーチを中心に子ども・若者に関わる。

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