災害・復興支援

震災から4年。支援の「受け手」から復興の「担い手」へ-「もう死にたい」を乗り越えて被災地に希望を灯す

東日本大震災から4年が経過した石巻市

「復興に関わりたい」子どもたちは約67%

東日本大震災から4年が経過しました。ある小学校の校長先生の言葉を借りるのであれば、「震災が”始まってから”」4年が経過したことになります。

4年の月日が流れていく中で、今年大学を卒業するのは、震災当時の高校3年生たちです。私が所属する石巻専修大学でも、この3月に約400名の卒業生が社会に旅立ちます。震災当時、中学2年生だった子どもたちは、高校を卒業し、小学校2年生だった子どもたちは、今年小学校を卒業します。

避難所、仮設住宅、そして復興公営住宅へと、生活の場が変化していく中、また依然としてスクールバス通学を強いられるなど、劣悪な学習環境におかれている中、被災地における子どもたちは、支援の「受け手」として、常に認識されているのではないでしょうか?

確かに以前の記事「震災が”始まってから”二年半-全国不登校率ワーストの宮城県の今」や、「4年目に入る被災地。子ども「だけ」の支援では子どもを救えない。-NPOが使命を果たすためにすべきただ一つのこと」で述べたように、より根深い深刻な課題はいくつも横たわっています。

しかし、その一方で子どもたち自身が支援の、復興の「担い手」に回りたいと思っていることは、あまり知られていません。

公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが実施した「Hear Our Voice 9〜子ども参加に関する意識調査 2014〜」

公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが実施した「Hear Our Voice 9〜子ども参加に関する意識調査 2014〜」によると、「あなたは住んでいる町の復興に関わりたいと思いますか?」という問いに対して、約70%の子どもたち(小〜高校生)が「関わりたい」と回答しています。

公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが実施した「Hear Our Voice 9〜子ども参加に関する意識調査 2014〜」

また、「あなたは自分のまちの復興のために何かしたことがありますか?」という問いに対して、約60%の子どもたちが「したことがある」と回答しています。

支援の「受け手」とされている子どもたちが、実は「担い手」として復興に携わりたいと思っていることは、課題山積の被災地において、かすかな希望です。

東北3県(岩手・宮城・福島)では、中学時代あるいは高校時代に被災を経験し、現在大学に通っている学生も少なくない。この調査結果のように「復興に関わりたい」と思っていた震災当時の中学生、高校生は、大学生となったいま、どんな思いを抱えながら、生きているのでしょうか?

今回は、本学に通うある1人の学生の物語を紹介したいと思います。以下は、学生による寄稿です。

東日本大震災から4年が経過した石巻市

「死にたい。」と何度も思った私が、被災地と関わる理由。

2011年3月11日。当時、私は高校2年生だった。

この日はたまたま高校が休み。私は沿岸部の祖父母の家で過ごしていた。午前中に外出した疲れから、少しうたた寝をしていた。そんな時、東日本大震災が発生した。

家の中は、足の踏み場も無いくらいめちゃくちゃ。更に震災前から、祖父母は2人とも体調を崩しており、2人だけにはできない。私は震災発生からの数週間を祖父母と過ごした。

1ヶ月程が経過し、祖父母も少し落ち着いた頃、私は少し体の不調を感じた。寝れない。動悸がする。「変だな?」と思い、内科を受診した。そこで言われたのは「震災の影響でそうなっている人はたくさんいるよ。とりあえず睡眠薬出しておくね。」の一言だった。私もそんなものかと思い、その時はあまり重く捉えていなかった。

4月も終わる頃、高校が再開した。私は電車通学だったが、なぜか乗るのが辛い。人の目が気になる。やはりおかしいと感じた私は、親に相談した。そのまま心療内科の受診を受け「パニック障害」と診断された。

その後、私は人に会いたくないという思いや、急激な不安感や動悸などに何度も襲われた。その度に、処方された薬を飲む。しだいに薬が無いと不安になり、泣きながら薬を探した事もあった。

高校にも通えなくなり、不登校に。「死にたい」常にそう考えていた。最終的に入院するまで、何度も薬を大量に飲んで、死のう死のうと考えていた。

そんな時、私の「今」に大きな影響を与えてくれた人物がいた。担任の先生だ。体調の良い日に保健室登校をしていた私が、学校に来た事を知るとすぐに保健室へ来てくれる。普段はしないような、たわいのない話もたくさんしてくれた。時には他の先生も連れて来て、その先生の昔話なども聞かせてくれた。先生が、どうして教師を目指したのか。今に至る紆余曲折な経験。様々な失敗談。その一つひとつを包み隠さずにしてくれた。

この時の私は常に死ぬ事だけを考えていた。でも、先生が笑顔でいろんな話をしてくれる度に、話を真剣に聞いてくれる度に「早くクラスに戻りたい。元気になりたい。」と少しずつ思えるようになった。何か直接的に悩みを解決してもらった訳ではない。でも、自分が登校するとすぐに保健室に来て、話をしてくれる。そんな先生の存在があったから、自分がここに居ても良いと思えた。あの時先生がいなかったら、ここに自分はいなかったかもしれない。

そんな先生や家族のサポートがあったおかげで、学校への復帰、そして大学進学もできた。

そして大学2年の春。今活動しているNPOと出会った。ここには人間関係や不登校で悩む子ども達が多く来ている。そんな子どもたちと、震災後の自分がどこか重なるような気がした。

NPO法人TEDICの学習支援

活動に参加して数ヶ月後、私はある子どもに出会った。学校での人間関係に失敗し不登校となっていた子だった。その子に「もう死にたい。」そう言われた。正直、何をしたら良いのか全く解らなかった。自分に何が出来るんだ?毎現場その子に会う度に悩んでいた。でも、考えても何も出来ない。一緒にその時間を過ごす中で、話を聞くしか出来ないな、と考えていた。

そして活動最終回。その子から手紙をもらった。そこには、「私の話を聞いてくれてありがとう。悩んでいる時に話を聞いてくれて嬉しかった。出会っていなかったら、私はここにいなかったかもしれない。」そう書いてあった。その手紙をもらうまでは、自分には隣で話を聞くしか出来ないと思っていた。でも、その子に本当に必要だったのは、自分が隣で話を聞く事だった。その子には、隣で話を聞いてくれる人が必要だった。

私は、自分が震災で不登校だった事は人生の汚点だと考えていた。できれば一生隠して生きていきたいとも思っていた。でも、活動で出会う子どもたちと同じ時間を過ごす中で、「自分の経験が、少しでも子供たちの役に立てば」と考えるようになった。専門性があるわけでも、悩みを解決してあげられるわけではない。でもそんな子供たちに寄り添って、一緒に笑って、一緒に考える事は出来る。あの時、自分に接してくれたあの先生のように。そう考えるようになった。

震災から4年が経ち、最近では様々な人から、「あの時は本当に辛かったね。」と言われる事が多い。確かに辛かった。でも、今は悪い経験だったとは思っていない。あの経験があったからこそ、今の自分があると思う。この自分の辛かった経験が、今この時苦しんでいる子供たちの役に少しでも立てれば。そしてその子ども達が自分のように、悩んでいた経験を悪い経験だったと終わらせず、次に繋げていければ良いなと考えている。そして、そうなっていく過程で一緒に悩み、考える。そんな存在になる事が、今の私の夢だ。

5年目に突入、支援の「受け手」から「担い手」へ

2015年末をもって、いよいよ国の定める集中復興期が終了します。もちろん、集中復興期が終了することは復興を意味するわけではありません。

補助金が打ち切られ、財源も限られてくる中で、予算を捻出し、個別化する課題を支える体制を構築し、そしてそれを支える担い手の育成ことが、被災地には求められています。課題が山積する中で、いよいよカウントダウンが始まりました。

その中で、「復興に関わりたい」という思いを抱いている子どもたちの存在は、まちの希望です。その一方で、先の調査結果の通り、「復興に関わりたいと思っていない」子どもたちは約30%います。

公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが実施した「Hear Our Voice 9〜子ども参加に関する意識調査 2014〜」

この約30%の子どもたちに対する「その理由を教えてください」という追加質問に対する回答が上の結果である。上位2項目は「何をしたらいいのか分からない」「関わる機会がない」であった。

公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが実施した「Hear Our Voice 9〜子ども参加に関する意識調査 2014〜」

また、「自分のまちの復興のために何もしたことがない」子どもたちが約40%いたが、「その理由を教えてください」という追加質問に帯する回答が上の結果です。同じく、上位2項目が「関わる機会がない」「何をしたらいいのか分からない」でした。この2項目が、子どもたちの意欲を削いでしまい、また行動を妨げてしまっています。

逆に言えば、「何をしたらいいのかがわかり」、「関わる機会があれば」、子どもたちは「関わりたい」と思い、また行動に移すことが出来るということです。では、一体私たちに何ができるのでしょうか?

第一に、子どもたちの担い手として、プロセスに参加してもらうことです。

「子どもたちは支援が必要な、弱い存在」であるかのような先入観を取払い、ひとりの市民として一緒に復興を進めていく存在として捉え直すことです。

具体的には、支援の現場において役割の一端を担ってもらうことであったり、まちづくりや自治体の計画作りのプロセスに参加してもらい、意見を述べてもらうことなどです。「子どもだから、出来ない」ではなく、「子どもたちだからこそ、出来ることがある」と認識し、積極的な情報の共有と、参加の機会を意識的に、大人が創っていかなければなりません。

第二に、子どもたちの代弁者となって、声なき声を発信し続けることです。

先に述べたように、「担い手として関わりたい」子どもたちがいる一方で、いまだ深刻な状況から抜けられず、支援を必要としている子どもたちがいます。声を上げることもできず、また自ら行動を起こし、参加することができない子どもたちがいます。現場の最前線で関わっている私たちだからこそ、そんな子どもたちの思いを代弁し、声を届けることが必要です。

そしてどちらにも言えることだが、その結果をフィードバックして、子どもたちに伝えることです。参加したことによって何が変わったのか、もしくは変わらなかったのか、包み隠さずに子どもたちに伝えること、これが次の行動を生みます。これは大人の覚悟が試されることでもあります。

5年目を迎え、いよいよ地元住民に復興のバトンが投げられます。そのときに、一緒に描く未来の社会の主役は、まさにいまの子どもたちです。震災が教えてくれた、子どもたちの力の大きさ、レジリエンスと向き合い、寄り添い、この5年目を一緒に乗り越えていきたいと思います。

Author:門馬優
1989年生まれ、宮城県石巻市出身。石巻圏域子ども・若者総合相談センターセンター長。早稲田大学大学院教職研究科修士課程修了。東日本大震災で故郷が被災、2011年5月にTEDICを設立(2014年にNPO法人格取得)。貧困、虐待、ネグレクト、不登校、ひきこもりなど様々な困難におかれる子ども・若者に伴走しながら、官・民の垣根を超えて、地域で育んでいく支援・仕組みづくりに取り組み、主に困難ケースへのアウトリーチを中心に子ども・若者に関わる。

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